国連英検特A級合格者であり、現在は異文化経営コンサルタントとしてご活躍されている冨永信太郎様より、寄稿頂きました。
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冨永信太郎 長崎県立大学経済学部経済学科卒業 国際連合公用語英語検定試験 特A級合格(1987年) 異文化経営コンサルタント、ビジネス英語講師、 異文化コミュニケーション/交渉/指導者要請/変革対応/ 権限委任/対立解決などの研修講師 » 英語Website (LinkedIn) » 日本語Blog (Cross-cultural Show Time) » The Nikkei Weekly国際ビジネス活用講師 » ファンワークス株式会社: 主任ビジネス英語講師 » Pyramid ODI委嘱「指導者養成講師」 |
略歴
大学生時代に米軍基地で働き生の英会話を習得した。卒業後東京の商社に勤め、貿易実務を学んだ後、単身、海外に雄飛。国際ビジネスにどっぷりと漬かりながらインドネシア、シンガポール、欧州、米国など移動。
シンガポールでは、日本の中堅電子部品製造会社のためにシンガポールに製造子会社を設立し、経営した経験が国際ビジネス経営コンサルタントとしての資質が養成された。
また、海外滞在中に接触した多国籍実業人達と商交渉を何度も経験し、それを体系化したビジネス英語には定評がある。
米国マサチューセッツ州ボストンで販売管理研修受講、ドイツ・ミュンヘンで販売店管理研修受講。米国ジョージア州オーガスタで指導者養成研修を含む7種類の研修を受講し、それらの研修講師資格を受領したのち、Regional Vice Presidentに任命されている。日本人には日本語と英語、外国人には英語を使って様々な異文化研修を提供している。
私は、現在、独立して国際経営コンサルティングを営んでいます。それは、異文化対応研修、国際販売管理研修、交渉を含むビジネス英語研修、異文化コミュニケーション研修、指導者養成研修、対立解決研修、変革対応研修、権限委任研修、コーチングなどを含みます。更に、様々な場所で、異文化、言語、翻訳などに関する講演を提供しています。
また同時に米国ジョージア州オーガスタ在のコンサルティング会社でPyramid ODIのRegional Vice Presidentとして米国から日本に進出した企業に対して様々な研修を提供しています。
研修参加者は、日本人もいれば、外国人もいまして、日本人には、日本語と英語の両言語を活用し、外国人には英語を活用して研修を提供しています。
研修資料のほとんどは私の手作りです。日本語も英語も両方私が最初から作成します。Pyramid ODIの研修は、既に作成されている英語の資料を日本語に翻訳してから、日本人に分かり易いように加工を施して活用しています。
1990年に米国で受けた販売管理研修で、主任研修講師から、「販売はショーである。そこにおいて販売者はエンターテーナーであるべし」と教えられて、それに感動し、以来、私は、研修や講演において、エンターテーナーであるという意識を持って、参加者が退屈せずに、楽しみながら、私が提供する研修や講演の中身を吸収して頂くように努めています。
そこで生きるのは、ずばり、国連英検特A級の資格です。
国連英検特A級を受けた経緯を若干書いてみます。
1987年、私は、米国テキサス州ダラス市に長期単身出張していました。日本にいた家内から、一通の葉書が届きました。内容は、「国連英検特A級試験に応募したので、試験を受けるために一時帰国できないか、あなたなら絶対受かると思う」と書かれてありました。
たまたま帰国して仕事の報告をしなければならない要件が発生し、国連英検特A級の試験を受けることができました。しかし、家内は、試験の3カ月ほど前に私に連絡したために、私は、ほとんど受験勉強らしきものが出来ず、国連に関する英語の本と問題集一冊の計二冊を5回ほど読んだだけで、受験に臨みました。それは1987年の春ごろだったと思います。当時私は36歳でした。
津田沼にあった千葉工業大学が受験場でした。私は、試験会場に40分ほど前に着き、教室を探して入りました。するとそこには既に20名ほどの受験者が着席して、なにやら一所懸命に参考書と英和辞書を読みながら勉強している姿を目撃しました。私は、参考書も辞書も持って来ていませんでした。娘が使用していた筆箱の中に良く研いだ鉛筆数本と消しゴムと受験票のみ持参していました。
必死に勉強している人達の姿に圧倒されて、私は、その教室を出て、試験開始5分前にようやく教室に入りました。一気に不安になりました。試験官が問題を持って来て、教壇の上に置き、それらを受験者に配りました。時間になるまで表を伏せた状態にして、時間が来たら、それを表にして試験が開始されました。
最初から最後までペラペラめくってみました。じっくり読まずともその内容の難しさが良く分かりました。咄嗟に思いました。「できないかもしれない。高度な内容で問題が多すぎるし、あ~しまった。これはまず落ちる。なんということだ~。」
量の多さに圧倒されて、読み返す時間がないだろうと予測し、猛烈な速さで問題に挑みました。国連関係の問題は、事前に英文で書かれた国連に関する雑誌を読み重要な情報は頭に入れていたため、案外と楽に書き込めました。国際時事に関する設問は長文だったにも関わらず、常日頃、国際政治に関する情報を英文で入手していたためか、これらも時間をかけずに答えて行きました。そして途中で驚きました。自然科学や地理に関する課題を目にして、「これは英語力を問う試験というより、英語による高度な国際常識を問う試験で、英語を母語とする人でさえ、非常に難しいのではないか」と思うに至りました。同時に、この試験に受かった人は、堂々と、「国際人」として世界の舞台に躍り出て活躍する能力を持つ事を意味するだろう、と納得しました。
幸いな事に、私は、高校時代に理科系に在籍していて、自然科学が大好きで、暇さえあればその関連書物を日本語と英語で読みながら習得していた知識のお陰で、完璧ではなかったけど、7割程度は大丈夫だろうと思いました。
そして私は最後の作文問題に到達しました。その時、残った時間は15分でした。120分のうち105分も最後に至るまでに費やしたのです。最初に想像した通り、見直す時間はありません。その15分を利用して、今も覚えている設問に挑みました。それは、State your opinion on UNESCOでした。丁度その頃、米国がUNESCOから脱退するかも知れないという情報を入手していました。
1987年当時、日本は強大な経済力を構築し、米国のそれを脅かせていました。私は、残された15分内に、米国がUNESCOから撤退したとしても、米国を責めることなく、むしろ米国の肩代わりができるほどに日本はUNESCOに対して積極的に貢献すべきだ、という事を書きました。
この英作文問題は、単語数が限られていまして、確か200単語以内で書き、その単語数を括弧内に書かなければなりません。書きあげた後に残った時間はわずか3分でした。最初に勘定した数は、200を超えました。もう書きなおす時間はありません。もう一度数えました。すると200を切りました。もう一度勘定しました。すると200を少し超えました。残り時間は後30秒です。私は、三度勘定した数を足して3で割りました。200をほんの少し超えました。その数字を正直に書きました。その瞬間、試験終了のベルがなり、私は、一気に力が抜けました。
(※現在の特A級の英作文問題は200語~250語です。)
試験問題集が試験官の手に集められて、彼は、教室を後にして、私は、その教室を出ました。最後の英作文の語数が多かったために、私は、「完全に落ちた。完敗だ。」と思って帰宅しました。家で待っていた家内にもその旨伝えて、しばらく経ってから、私は再びテキサス州のダラスに戻りました。
しばらくして、家内から葉書が届きました。なんと第一次試験に合格していたのです。私はその葉書を手にしてしばらく茫然としながら思っていました。「あの英作文は少しばかり点数をくれたのだろうか。でなければ合格などできない」しかし、合格したのは事実で、神田駅近くにあった神田外国語学院で面接試験を受ることとなりました。面接官は、米国人で元国連大使でした。穏やかな表情をたたえた紳士であった事、一目で分かりました。彼の後ろに日本人が座っていて、どこかの大学の英語学の教授であったと思います。米国人が私にいろんな質問を投げて、それに私は一つ一つ答えました。面接時間は15分です。10分ほど経った頃、彼は、私にこう聞きました。実は今も覚えています。
面接官:「日本は同盟国を持っていると思いますか」
私はすぐに答えました。
私:「はい、それは米国です」
それから以下のような問答がありました。
「日本は米国以外に同盟国が必要でしょうか。あなたはどう思いますか」
「はい、米国は非常に大事な同盟国です。それに加えて他に同盟国はあってしかるべきだと思います。」
「あなたの意見で、他の同盟国はどの国が良いと思いますか」
「はい、近くて遠い国の韓国が最適だと思います。」
すると、面接官は、破顔一笑して立ち上がり、私に握手を求めたのです。そして大きな声で言いました。
「私は、初めて、日本人の口から私と同じ意見を聞きました。なんと素晴らしい。冨永さん、私は非常に嬉しい!」そうして彼は、後ろに座っていた日本人にも同意を求めました。
「ね、そう思いませんか。ここに一人の日本人がいて、彼は私と同じ意見を持っているんです。素晴らしいじゃないですか」
私は呆気にとられていました。それから、彼と15分以上も国際情勢の話をすることになりました。15分の予定があっと言う間に30分も経過し、後ろにいた日本人が「そろそろ終わりにしましょう」と言ってくれて、ようやく面接が終りました。
私は面接官と固い握手を交わして、その部屋を出て行きました。家内が近くの喫茶店で私の帰りを待っていました。時間が経ったので、恐らく、話がはずんでいたのだろうと思ったそうです。
私は、面接官と話した興奮が冷めやらず、その状況を家内に話しました。彼女は笑顔を顔に浮かべて私に言いました。「あなた合格したわね。おめでとう」私もそう思いました。しかし、合格通知を手にするまでは安心できないと思い、私は、再びダラスに戻りました。ひと月ほど経って、家内から面接試験合格を知らせる葉書が届きました。
良く考えますと、私が筆記及び面接試験に合格したのは、常日頃から国際政治経済の動向情報を日本語と英語で収集していたからでありましょうし、マーケティング活動において、英語による打ち合わせを頻繁に繰り返していたために、説明能力が付いていたからだろうと思いました。付け焼刃の勉強では簡単に受かることはできません。
この瞬間から、私の人生が大きく方向転換し始めました。内心思いました。「こんな難しい試験に合格した。しかも筆記試験と面接試験はそれぞれ一発で通った。よしこの資格を利用して自立し、国際経営コンサルタントとして仕事をしよう。」
私は来年(平成23年)の8月に還暦を迎えます。今の私は、まるでうぶな少年のような気持ちでいます。1987年に私の家内の勧めにより受験した国連英検特A級に合格して、既に23年経過しています。楽しく国際的な仕事が出来る切っ掛けとなった国連英検特A級の資格は、私にとって大事な宝でしてこれからも、生きている限り、定年を意識することなく、英語を活用しながら、そして楽しみながら仕事を続けて行く、そういった活力を私に与えてくれています。

